祇園祭とは

祇園祭の由来

 祇園祭は八坂神社の祭礼で、その起こりは平安初期の貞観11(869)年。当時、京の都をはじめ、国々で疫病が流行し、人々はこれを牛頭天王の祟りとして恐れました。そこで、国の数と同じ66本の矛を立てて祭りをおこない、神輿を神泉苑に送って疫神の祟りを祓おうとしたのでした。これが祇園祭(祇園御霊会)の始まりとされています。
 室町時代には経済力を蓄えた町衆が鉾と並んで作り山や輿をを建てるようになり、58基(一説では60基)もの山鉾を巡行させていました。応仁の乱(1467-1478)で中断するものの、明応9(1500)年には都の復興・有力商人の台頭とともに、豪華絢爛な祭りへと発展しました。千年以上の歴史をもつ祇園祭は、東京の神田祭、大阪の天神祭とともに、日本の三大祭りに数えられ、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

ちまきとは

 祇園祭といえば、やはり厄除け粽。といっても、食べる粽を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、祇園祭の粽は食べ物ではありません。笹の葉で作られた厄病・災難除けの御守りです。毎年、祇園祭の時にだけ、各山鉾町のお会所や八坂神社で販売されるもので、京都では多くの方がこれを買い求め、厄除けとして玄関先に飾ります。翌年の祇園祭に新しい粽を買い求め、古い粽を神社に奉納します。
 この粽は、八坂神社さんの御祭神であるスサノオノミコトに由来します。昔、蘇民将来という男の家に、旅人に身をやつしたスサノオノミコトが訪ねてきて、一夜の宿を求めました。蘇民は貧乏でしたが、それでも手厚くもてなします。スサノオノミコトはその心遣いに大変喜んで、そのお礼に「今後お前の子孫は末代まで私が護ってやろう。目印に腰に茅の輪をつけていなさい」言い残して去っていきました。 そのお陰で、後に疫病が流行った際も、蘇民の一族は 生き残り繁栄したといわれています。

三基の神輿

 祇園祭の中心となる八坂神社の神様は、スサノオノミコト(素戔嗚尊)とその奥さんクシナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、そして8人の子供たち(三男五女)ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)の三座です。 祭りの期間中、祇園の神様は神輿にお乗りになり、洛中の男衆にかつがれて、神の域である八坂神社から氏子が暮らす地域にお出ましになります。
 スサノオノミコトが乗られる中御座は六角形の屋根で、上には鳳凰、その足元には青稲が飾られています。 三若神輿会の男衆によってかつがれます。クシナダヒメノミコトが乗られる東御座は、四角形の屋根で、その上には葱花が飾られています。四若神輿会の男衆によってかつがれます。
 西御座にはヤハシラノミコガミが乗られ、八角形の屋根の上には鳳凰が飾られています。こちらは錦神輿会の男衆によってかつがれます。 三基の神輿は、前祭の山鉾巡行が済んだ17日の夕刻、八坂神社の南楼門から出発し、それぞれ所定のコースを練り歩き、四条御旅所に到着し、この夜から7日間、留まります(神幸祭)。そして、後祭の山鉾巡行が済んだ24日の夕刻、三基の神輿は氏子区域をまわって八坂神社へ戻ります(還幸祭)。

久世駒形稚児

 八坂神社の祭神、スサノオノミコトはやさしく穏やかな和御霊に対して、綾戸國中神社のスサノオノミコトは、荒々しく活動的な荒御霊といわれています。 駒形(馬の首の彫物)を胸に掛けて馬に乗り、神の依代となった稚児とともに荒御霊が八坂神社にやってくることで、和御霊と一体になるといわれます。
 綾戸國中神社の氏子の中から選ばれた2人の久世駒形稚児が、騎乗で八坂神社を参拝し、一歩も地を踏むことなく、本殿に昇殿し祭典に臨みます。
 そして、17日の神幸祭と24日の還幸祭では、それぞれ1人ずつが馬に乗って、スサノオノミコトの中御座を先導しながら、八坂神社の氏子が住む町々を巡行します。

祇園祭 稚児ぎおんまつりちご

 祇園祭の稚児といえば、長刀鉾の生稚児(いきちご)が有名です。長刀鉾は毎年巡行の先頭を行く"くじとらず"の鉾で、選ばれた生稚児が禿(かむろ)と共に搭乗し、前祭(さきまつり)の山鉾巡行で、注連縄を切ります。かつては船鉾を除いた全ての鉾に稚児が載っていたが、今では生稚児が搭乗するのは長刀鉾だけです。天明の大火(1788)で壊滅的な被害を受けた函谷鉾が天保10年(1839)に復興する際、稚児人形を用いたのをきっかけに、他の鉾もそれにならい人形に替わっていったといわれます。

 祇園祭には、もう一つの生き稚児として、綾傘鉾の稚児があります。こちらは、毎年6名の稚児が選ばれ、徒歩で巡行します。幼稚園の年長から小学校低学年の稚児が、化粧に狩衣(かりぎぬ)、烏帽子といった姿で歩きます。昔の洛中洛外図には、綾傘鉾巡行のところには、強力(ごうりき)さんに担がれた稚児が描かれています。6名の稚児、棒振り囃子、傘鉾が綾傘鉾の三大特徴といわれます。

山鉾巡行

前祭宵山 7月14日~16日 / 巡行 7月17日

後祭宵山 7月21日~23日 / 巡行 7月24日

【前祭】
1 長刀鉾 2 孟宗山 3 芦刈山 4 伯牙山 5 函谷鉾 6 油天神山 7 四条傘鉾 8 占出山 9 月鉾 10 蟷螂山 11 木賊山 12 山伏山 13 菊水鉾 14 郭巨山 15 綾傘鉾 16 太子山 17 鶏鉾 18 白楽天山 19 保昌山 20 霰天神山 21 放下鉾 22 岩戸山 23 船鉾 24 布袋山(休み山)

【後祭】
25 北観音山 26 南観音山 27 橋弁慶山 28 役行者山 29 鯉山 30 八幡山 31 鈴鹿山 32 黒主山 33 浄妙山 34 鷹山 35 大船鉾

7月

1日 吉符入きっぷいり(各山鉾町)
長刀鉾町お千度なぎなたほこちょうおせんど(八坂神社)
2日 くじ取り式(京都市役所会議場)
3日 神面改めしんめんあらため(船鉾町)
5日 長刀鉾稚児舞披露なぎなたほこちょうちごまいひろう(長刀鉾町)
7日 綾傘鉾稚児社参あやかさほこちごしゃさん(八坂神社)
10~14日 前祭 山・鉾建てさきまつり やまほこたて(各山鉾町)
10日 神輿洗式みこしあらいしき(四条大橋)
12~13日 前祭り 山鉾曳初めさきまつり やまほこひきそめ
13日 長刀鉾稚児社参なぎなたほこちごしゃさん(八坂神社)
久世駒形稚児社参くぜこまがたこちごしゃさん(八坂神社)
14~16日 前祭 宵山さきまつりよいやま(各山鉾町)
16日 前祭 日和神楽さきまつりひよりかぐら
17日 前祭 山鉾巡行さきまつりやまほこじゅんこう
神幸祭しんこうさい(八坂神社~四条御旅所)
18~21日 後祭 山・鉾建てあとまつり やまほこたて(各山鉾町)
20~21日 後祭 山鉾曳初めあとまつり やまほこひきそめ
21~23日 後祭 宵山あとまつりよいやま(各山鉾町)
23日 後祭 日和神楽あとまつりひよりかぐら
24日 後祭 山鉾巡行あとまつりやまほこじゅんこう
花傘巡行はなかさじゅんこう
還幸祭かんこうさい(八坂神社)
28日 神輿洗式みこしあらいしき(四条大橋)
29日 神事済奉告祭しんじずみほうこくさい(八坂神社)
31日 夏越祭なごしさい(八坂神社 疫神社)

鉾と山の解説

 鉾は、疫神の依代となる真木を中心に館を組み、それに車をつけて曳きまわす形態です。その原型は、キラキラと光を反射しながら揺れて疫神を集める神座としての剣鋒です。
 鉾の基本構造は、櫓、舞台、真木の3つからなり、これに車両部がつきます。組み立ては釘は使わず、すべて太い荒縄でしばりあげていきます。

 山は、曳山と舁山に分かれます。曳山は鉾の真木が真松に代わるだけで鉾と同様の形態です。舁山は、物語の一場面をご神体が演じるなどの移動舞台ともいえます。
 傘鉾は、大きな傘の上にご神体を乗せたものや、松を飾った風流傘で、それに囃子を奉納しながら巡行します。

鉾・曳山

「重 量」約12トン(約3,200貫)
「高 さ」地上から鉾頭迄約25米 地上から屋根迄約8米
「車 輪」直径約1.9米前後
「屋 根」長さ約4.5米 巾約3.5米前後
「鉾 胴」長さ約3.5米 巾約3米
「石 持」長さ約6米余
「囃子舞台」8平方米~10平方米
「曳 手」鉾の巡行に当り綱を曳く役 40人~50人
「音頭取」曳子と車の操作の上に立つ指揮者2人(辻を曲る時のみ4人)
「屋根方」電線等の障害を調整する役4人
「囃子方」祗園囃子を演奏する人たち 「車方」鉾の舵をとる役

舁山

各山とも構造、重量に大差なく、その飾り金具、人形の大きさにより多少重量が異なります。

「重量」約1.2トン(約320貫)~約1.6トン(約420貫)
「舁手」14人~24人

山の中でも岩戸山、北観音山、南観音山は曳き山で形態は鉾と同じくただ真木が松の木で高さは地上約15米あります。

花傘巡行

 24日、後祭の山鉾巡行とほぼ時を同じくしておこなわれる花傘巡行は、山鉾の古い形態を現代に再現したもので、芸能色がかなり濃いのが特徴です。先頭は、元気なかけ声を響かせた子ども神輿。そして、花傘をかぶった女性や武者行列、鷺踊、獅子舞、芸妓さんや舞妓さんを乗せた曳き車などが続きます。花街の綺麗どころをはじめ、総勢1,000人近くと大規模で、実に華やかで、賑やかな行列が巡行します。

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